ぼくの住む仙台市は東北の中心とも言われ、人口110万人弱の政令指定都市ってやつだ。
それなりに開けた街で、県外から引っ越してきた方達には暮らしやすいとよく言われる。
そんな仙台の今年の夏は終わった。
仙台あるあるとして「台風が大したことない」というのがある。
今年もテレビでは「今回の台風○○号は勢力が大変強く警戒が必要です」「不要不急の外出は避けてください」とアナウンサーが連呼していた。
それをぼくはいつも「どうせ今回も…」と冷ややかに聞き流していた。
日本列島を縦断してくる台風は仙台に来る頃には勢力も弱まり、時にはすでに温帯低気圧になっていることも少なくない。
全国放送で報道されるのはどうしたって首都圏向けの情報に偏る。
そういうことも頭に入れていないと、いちいち心配して心を削るのは杞憂に過ぎない。
情報が溢れているいま、それは色んなところで起きていて特にネットやSNSでよく見られる。
どこかで炎上している事件、どこかでもてはやされている誰か、どこかで否定されている何か。
それは自分にも起こりうることで、想定してみることは無駄ではないだろう。
ただ、それは世界の全てではない。
むしろほとんどが自分とは無関係で、普段ネットやSNSにあまり触れない大多数の人にとっては存在すらしらない出来事。
そこにまともに飛び込んで、勝手に溺れてもがいて体力も精神力も時間も費やすのはマイナスでしかない。
ちょっと前のぼくはそういう人間だったと思う。それが面白くてやっていたし、興味もあったし沢山の物事に触れること自体にはメリットも感じていた。
だけど、そこは沼。
知らないうちにずぶずぶと膝まで浸かり、腰まで沈み、やがて飲み込まれる。
その沼が実はとても小さいもので、沼の外の世界は果てしない多様性があることに気付けないまま。
最近は見ないとまではいかないがネットやSNSを台風みたいなもんとして眺めている。
もちろん実際の当事者はどこかにいるんだけれど、ぼくのところには大雨も強風もやって来ない。
思いを馳せるのはいいけど、今やるべきこと、明日起こることはそれとは無関係なことばかり。
インスタ映え目的にタピオカを買うのが流行り、ゴミをあちこちに投げ捨てることが社会問題的に取り上げられていた。
少なくともぼくは一度もプラスチックのカップがあちこちに捨てられているのに出会ったことは無い。
もちろん仙台にもたくさんのタピオカ屋が軒を連ねていてまだ増えているらしい。
ただ、ぼくの行動範囲にはそういう光景はない。ぼくにとってはタピオカの空きカップの山は、ドラマや小説のワンシーン程度にしか感じていない幻だ。
インスタに映るどこぞのビーチリゾートも、Twitterで炎上しているどこぞの会社も、ネットで叩かれている会ったことも無い芸能人も、ぼくの生活には何ももたらさない。
全ては虚像だ。
最近はそんなことを思いながら、やめてもいいのにやめれないネットの波を漂っている。
ぼくにとっての今の問題は、店の前の歩道にそびえ立つイチョウの木。
毎年この時期は銀杏の雨を降らせる。
その実を踏んでしまった日にはウ〇コを踏んだのかと思うような臭いがピッタリと付きまとってくる。
ちゃんと自分の立っている場所を、自分の歩いている道を、自分の足元を見よう。
そんなことを考えながら日々生きています。
皆さんも野生の銀杏にはくれぐれもご注意を!