仙台市青葉区美容室、KiRANA(キラーナ)で粛々と美容師をしております。スズキです。
まずは、京都アニメーションの火災について被害者の方へのお悔やみと、京アニの作品を愛していた方への憐情の意を表します。
正直、ぼくは京アニ作品については造詣が深いわけでもなく、今回の件で色々知ったというくらいなのでその辺の文化の消失については多くは語れません。
ぼくが何かモヤモヤしたのはTwitterで見たとあるツイート。
要約すると「私刑はやめよう。」みたいなツイートがあったんですが、それに対して「被害者側に近しい立場に立ったとしてもそう言えるのか?」とか、「司法には任せておけない」とか反対意見とも取れるものがたくさん見られたのです。
こんなにも私刑容認派が多いんだな、と。
最近、嫌な事件も多いですがSNSの浸透も手伝ってか加害者のみならずその家族や職場等まで特定され晒されるのは日常茶飯事になっています。
さらにはそこへ嫌がらせや酷ければ脅迫などという話も聞きます。
きっとそれをやってる人達は正義だとおもってやっているんでしょうが果たしてそうでしょうか?
「被害者に近しい立場に立ったとして」という意見。
それはその立場の人にしか分からないことだし、それを考えると許せない、だから成敗するっていうのはむしろその立場の人達への冒涜にもなりかねないんじゃないかな、と。
余計な雑音が生まれ、最悪の場合事件や事故の解決の邪魔にさえなることを被害者側の人達は望むでしょうか?
「司法には任せておけない」という声も仮にそうだとして、それなら司法が請け負う全ての事件や事故に介入しないと自分が興味ある1つの事象にだけ動くのは報復でしかなく、正義でも人助けでも何でもない。
それなら司法そのものを変えるための行動をするべきで、個人感情に任せてやいのやいの言うのはちょっと下衆だなぁと。
今回の事件だけでなく、最近そういうことを考えることがぼくの周りでもいくつかあり、遠巻きに見ていて率直に思うのは「みんな首突っ込むの好きだなぁ」むしろ首どころか関係者みたいな態度で関わろうとし過ぎではないかなぁ。
かと言って、加害者にも権利があるというのもスッキリはせず必要な罰は受けるべきだし罪は償わなくてはならないとも思います。
ただ、それは当事者同士がきちんとすべきでどういう罰が与えられるか決まってからそれに対して議論するのは勝手だけど、私刑に走るのは暴論すぎるな、と。
興味を持つことは大事だしそれをどう感じるかは個人の自由だとは思いますが、加害者は加害者、被害者は被害者だしそれ以外はただの野次馬であることを忘れては行けないし、行き過ぎた野次馬は自分や自分の周りにも火の粉が降りかかりかねないことも考えるべきじゃないかと思います。
自分が守るべきは誰かが守るべき人ではないし、自分が裁くべきは誰かが裁くと定められた人でもない。
自分の周りの大切な人を守るのが唯一のするべき事で、それが揺るがされるような事であればそれを防ぐための声を上げるのは理解は出来ますが。
もちろん、誰かに手を差し伸べることは素晴らしいことだし、やれる人がそれをするのは大いに評価されることだとは思いますが。
何でもかんでも震災に結びつけて申し訳ないですが、震災から2ヶ月くらい経った頃ぼくはとある避難所に簡易シャンプー台をトラックに積んでボランティアに行きました。
行く前にお客様から預かった募金などで何か必要なものを持っていこうとヒアリングをして。
壊滅的な被害を受けたその地域は、2ヶ月経ったその頃は色々な所からの支援も集まっていて生活する上での支障はあまりなく、必要なものは家と仕事(漁業)をするための船や漁具。
到底個人レベルでなんとか出来る問題では無く、ボランティア自体は笑顔で受け入れて頂きましたが、ぼくは無力感を覚えました。
誰かを助けようとする心は大事だけど、助けられる側のことを理解するには相当な努力が必要で、簡単に出来る「何か」は救済ではなく自己満足に過ぎないことを学びました。
まして、私刑に至っては被害者側に向けられたものではなく加害者をやっつけるために正義の皮を被った暴力になりかねないんじゃないかと。
何だか物騒な事件や嫌な事故が多い中、珍しく真面目にモヤモヤ考えていました。
では。