仙台のキラーナという美容室で美容師をしております。スズキユタカです。
あの日から7年。
ぼくは大した被害も受けていなくて、そんなぼくがいちいち経験談を語っても仕方ないと思って過ごしてきた。だから毎年この日は自分のことよりも募金のことなどを書こうと思ってブログを書いてきた。
だけど、今年当時のことを色々思い出してみた時に、はっきり覚えていることもと多いけど7年という月日が明らかに記憶を滲ませていることも感じた。
特に何かを伝えられるような経験は特段しておらず、かなり軽い方だと思ってはいるが自分の中では消したくはない記憶でもある。
なので、今年はここに書きとどめておこうと思う。
これは何よりも、未来の自分に向けた記録だ。
2011.3.11
いつもと変わらない金曜日。当時は確か7~8名のお客様がサロンに滞在していたように思う。
ぼくはパーマのお客様のお仕上げに入るところだった。
14時46分。
スタッフも含め15名くらいが店にいて、15台の携帯電話が1台、また1台と一瞬のズレを生みながら緊急地震速報のアラームを鳴らした。
そして一気にけたたましくアラームの不協和音が鳴り響いた。
まだそのアラームが何なのかよく分かっていなかったのもあり、うまく事態が飲み込めないまま揺れが始まる。
「あ、地震ですね」なんて平静を装っていた次の瞬間、まっすぐ立っていることの出来ないくらいの揺れ。
ぼくはお客様の後ろで背もたれに捕まりながら何が起きたのか一瞬分からなかったが、シャンデリア調の照明が鏡の中で揺さぶられ天井にぶつかりそうになっているのを見て、とにかく気持ちを整えなければ、と思った。
当時まだぼくは「店長」でありその日、サロンにいた男性スタッフはぼくだけだったと思う。
自分が先導しなければ。
そう思い避難経路を確保しようと思った瞬間、さらに大きい揺れが顧客カルテの入っている大きな棚をなぎ倒した。
近くにいたスタッフに声をかけ、ぼくの担当していたお客様のそばにいるように指示して非常扉を開けに行った。
扉を開けると3月になったというのに舞い落ちる雪とともに、ビルの外壁もパラパラと落ちて来た。
体感的には3分くらい揺れていた気がした。
揺れが収まった安堵とともに、荒れ果てた店内とお客様がいるのに一切の電気の消えた見たことのない風景を見て頭が真っ白になった。
この時ぼくが担当していたのはこれから仕上げという濡れた状態のお客様ひとり。当たり前だが停電していてドライヤーが使えない。選択肢は無かった。そのままお返しするしかないお客様に寒いだろうからとタオルを2~3枚お渡しした気がする。
当時、ぼくのいたサロンとひとつ上のフロアのサロンと歩いて5分ほどのところにあるサロンがあった。
離れた場所にあるサロンが気になったのと、そちらの方が周りに高い建物がまだ少なかったのもあって、スタッフにお客様を誘導してもらってそちらに向かうよう伝えた。
帰れる方はおかえしし、施術途中で薬剤処理をしないとまずい方は使う薬剤を持って、一緒に移動して頂いた。
ぼくは現金などの貴重品だけをとりあえずかき集めあとを追った。
この時、階段で1人の女性とすれ違う。
このあと予約を頂いていた方でやってないかなと思いながらもいらっしゃったとのこと。
今日は営業できないことを謝罪しながら、それぞれの感覚の違いや地震発生から間もない混乱を感じた。
スタッフの行った先に着くとサロンのすぐそばの駐車場に人が集まっていてそこにうちのスタッフもいた。
サロンから電気ポットに入っていたお湯とペットボトルの水を持ってきて、薬剤を流していた。
後から聞くとペットボトルの水は何件かのコンビニに断られた後、近くのコンビニで頼み込んで買ってきたらしい。
確か、カラーのお流しの方とストレートの1液放置中だった方がいたように記憶している。
ストレートの方に二液処理をしないままはお返し出来ないことを説明し、雪が舞う中、二液塗布をした。
ちなみにその時いらした方から施術料金は頂かなかった。
次にいらした時でいいです、と。
お互い無事でまた会いましょうと祈るような心境だった。
スタッフは交代で施術を進めながら、家族に連絡を取っていたが電話も通じず安否のわからないスタッフがほとんどだった。
それでも、誰も早く帰りたいなどと言わなかった。
まずはお客様を早く解放できるように尽力し、ひざ掛けをサロンから持ってきたり、カラーやパーマのクロスで少しでも寒さをしのげるようにみんなが率先して動いていたが、その時は感心する余裕もなかった。
何とかお客様をお返しし、とりあえず次の日にもう一度集まって今後のことは相談しようということになり解散。
ぼくも帰路についた。夕方6時前後だったと思う。
徒歩で帰る途中、ビルの外壁が剥がれ落ち真下にあったバス停がアルミ缶を踏み潰したようにぺしゃんこにしていた。
幸い人はいなかったようだったが、現実を目の当たりにし、一気に不安が押し寄せた。
当時住んでいたのは築35年ほどのマンションだった。エレベーターはもちろん動いていなかったものの、壁に少しヒビなどが見られただけで思ったよりも変わらぬ姿で静かに立っていた。
自室に行き、鍵を開けドアを引くが開かない。
間違って鍵をかけたのかと思い確認したがそれでも開かない。
すると、ちょうど隣の部屋に住む外国人カップルが現れた。
片言の日本語でドアは歪んで相当開きにくいこと、近くの小学校に避難していること、寒いから防寒具を取りに来たことを教えられ一緒に来ないかと誘われた。
とりあえず部屋を確認したかったぼくはあとで行けたら行く、と気のない返事をした。
それから数10分格闘し、やっとドアを開けたが1度開いたドアはもう閉まらなかった。
部屋に入ると思ったよりは原型をとどめていて、揺れの方向のおかげで倒れたのは本棚などで奇跡的に食器類はほとんど割れていなかった。
当時アナログ放送終了に向けて買ったばかりだった液晶テレビが無事か心配だったが位置がズレただけできちんとテレビボードの上に立っていた。
靴を脱いで自宅に入ると何かジャリジャリした感覚があった。
その時は暗くてわからなかったしそれが何なのか気にする余裕もなく身を翻し靴を履き土足で部屋に入り直した。
あとあと分かったのはキッチンにあった塩の入った容器が落ちてそこら中に塩がぶちまけられていた。
その間も断続的に続く余震の中、最初にやったのは液晶テレビを床に置くことだった。
その日の夜の記憶は無い。
どうやって寝たのか、むしろ寝なかったのか。
ただ、もう閉まらなくなったドアでは家を空けるわけにも行かずその後家から出なかったのは確かだ。
と、ここまでが震災当日の話。だいぶ長くなりそうなので何日かに分けて書いてみることにする。
楽しい話にはならないので、読みたくない方は数日後にまた違う記事でお会いしましょう。