毎年当たり前にやってくる1/365。
9年目。
今年は今までと違って、過去のことよりも進行形の世界的な困難に立ち向かうべき時であるのは間違いない。
震災に関する式典なども自粛ムードで中止や縮小も賛否あるけど個人的には仕方ない部分と思うところもある。集まって何かイベントをしなくても思いを馳せることはできるわけで、あえてこれからの未来へのリスクをとる必要は少ない気もする。
ただ、だからこそせめてメディアなどは今のウイルスの事よりもあの日のことを取り上げて欲しいなとも思う。こんな中でも開催せずにはいられない被災地の内面的な部分や、苦渋の決断でイベント開催を中止にした被災地を。
変に演出したりしたお涙ちょうだいストーリーではなく被災地が泥臭く何年もかけて積み上げてきた地味で何の変哲もない日常を。
やたらと感染数をカウントするだけならこういう日だけでも過去に日本が直面した困難を振り返る機会を与えてくれてもいいのではないか。
1万8000人の死亡・行方不明者。
震災直後に色々な報道でそんな数字を見た時に違和感を感じた。
それは18000という1つの数字ではなく、失われるはずのなかった1つの命が18000という途方もない数で失われたということ。
そのひとりひとりに家族や友人がいたということ。
この日が近付くなか、テレビやネットではコロナウイルスの感染者数や死亡者数を日々カウントしている。
亡くなるのは高齢者が多いことなどもあり、中には「亡くなった方はコロナウイルス以外のインフルや普通の風邪でも亡くなっていただろう」という論評も見られる。
一理あるだろうし、私自身も変に不安を煽る報道にはあまり賛成できないでいる。
ただ、世界で数千の命が失われていることには変わりなくそれは震災の時と同じでひとつひとつがまだ失われることのなかった命かもしれない。
家族がいた方も多いだろう。
もしかしたら孫がもうすぐ産まれるみたいな方もいたかもしれない。
もしかしたら色々なことを犠牲にしながら働いてきてやっと落ち着いた老後を手に入れた方もいたかもしれない。
数字だけでは計れないものがあることを震災を振り返ることで改めて気付かされた。
震災からまだ立ち直れていない人、台風被害からまだ立ち直れていない人、もしかしたらこの感染症の被害で今後困難に直面せざるを得なくなる人、そういう人がいるということを感じながら自分がやれることを小さくてもやるしかない。
必要以上に不安に煽られないこと、デマに扇動されないようにすること、おもいやりの精神で助け合うこと、そういうことを震災の時に学んだはずだ。
笑顔でいられない人を笑顔にさせてあげられるような人間でいたいし、そういう世の中でありますように。